熊野筆の歴史

熊野町には筆の原材料となるものは何一つありません。
それでは、なぜこの町に筆づくりが発達したのでしょうか?

熊野町は、四方を海抜500m前後の山々に囲まれた小さな高原盆地です。広島、呉、東広島の三つの市に囲まれるように、南北に細長い形をしています。

人口は約24,500人を数え、その内約2,500人が筆産業に携わっていると言われています。また、伝産法により伝統工芸士に認定された、筆づくりの名人が14人います。筆の原料となる動物の毛は、主に、ヤギ、馬、いたち、鹿、タヌキなどで、ほとんどを中国や北アメリカから輸入しています。筆の軸は、岡山県や島根県などから仕入れており、台湾、韓国からも輸入しています。このように、熊野町には筆の原材料となるものは何一つありません。それでは、なぜこの町に筆づくりが発達したのでしょうか?

●18世紀末(江戸時代末期)ごろ、平地の少ない熊野村では、農業だけでは生活が苦しいため、農閑期を利用して、奈良地方から筆や墨を仕入れ、それを売りさばいていたことが、きっかけとなり、筆と熊野の結びつきが生まれました。

●今から約180年前になると、広島藩の工芸の推奨により、全国に筆、墨の販売先が広がり、本格的に筆づくりの技術習得を目指すことになりました。
その先駆者となったのが、当時筆づくりが進んでいた、奈良や兵庫県:有馬に派遣されたり、地元に招いた筆づくり職人に、技術を習った若い村人達でした。

●その後、村民の熱意と努力により筆づくりの技が根づき、明治5年に学校制度ができ、33年には義務教育が4年間になるなど、学校教育の中で筆が使われるようになり、生産量が大きく増加しました。
第2次世界大戦後、習字教育の抑制により毛筆の生産量が落ち込んだ時期もありましたが、昭和30年頃からは書筆づくりの技術を生かして、画筆や化粧筆の生産も始まり、昭和50年には広島県で初めて通商産業大臣により伝統的工芸品に指定を受けました。現在では、毛筆、画筆、化粧筆のいずれも全国一の生産量を誇る産地として知られています。また、近年は化粧筆の品質が国内外で高く評価されています。このように、熊野の筆づくりは、今もなお親から子供へ子供から孫へと引き継がれています。