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化粧筆-概説

2009.08.20

伝統化粧と筆 ― 江戸時代以前 ― (津田紀代)

 

日本で化粧筆が使用され始めた時期ははっきりしない。絵画資料では、鎌倉時代の「伊勢新名所絵歌合」が、上流階級の女性が眉筆のようなものを使い化粧をする姿を描いている。また、現存する化粧筆としては、南北朝時代の1390年ごろに熊野速玉大社に足利義満らが奉納した化粧手箱の中に紅筆らしいものがある。しかし、江戸時代以前は資料に恵まれず、詳細はわからない。

 

化粧に様々な筆が使用されたことがわかるようになるのは、江戸時代である。化粧は武家の内向きの礼儀作法として位置づけられ、化粧に関する資料が多数まとめられた。

 

その中で特徴的なことは、刷毛と筆が明確に区別されずに、多く用いられていることである。小笠原流礼法の流れを汲む水島卜也が著した『化粧眉作口伝』は、多くの化粧筆を記し、それらを「刷毛」とも「筆」とも呼んでいる。また、ブランド刷毛も登場している。18世紀初頭に福岡式部が作ったという「式部刷毛」は、大坂で人気を得て、全国的に有名になっている。

 

こうした刷毛の広範な使用の背景には、当時の化粧方法が「おしろいによりつやを出す」ものであったことがある。つやを出すための指南は各書に見える。『都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわいでん)』の中の「おしろいをする伝」は、おしろいをつけたあとに刷毛に水を含ませて何回も刷くことが大事であると説く。また、『容顔美艶考』では、「眉刷毛もちいよう」として、筆や刷毛は軽く使い、おしろいを顔にこすりつけてはならないとする。

 

この他の化粧の筆は、お歯黒、眉、紅の筆が挙げられる。当時は結婚すると筆を用いて歯を黒く染めた。また、子どもができると、眉をそり落としていたが、上流階級では、儀式に出るときは筆で額に眉を描いていた。紅については、細い筆を用いて紅花からできた紅をつけていた。

 

化粧の変化と刷毛の多様化 ― 明治時代~昭和戦前期 ―

 

明治時代になると化粧は一変し、刷毛類も多様化を遂げた。お歯黒と眉剃りが廃止され、おしろい化粧に工夫が求められたからである。このことは、生まれ持った眉と白い歯を生かす新たな化粧の始まりであり、様々な刷毛を生みだした。

 

さらに、大正時代以降には西洋の化粧の流入と普及が進んでいる。大正時代の美髪女学校のテキストには、明治以来の化粧刷毛とともに、ポットやパフなどの西洋風の化粧道具が登場している。昭和戦前期には、濃い化粧方法として、下地にクリームを塗り、その上におしろい、クリーム、粉おしろいを順次つけ、フェイスブラシで仕上げる方法が紹介されている。

 

現在の化粧と筆へ ― 昭和戦後期~現在 ―

 

昭和戦後期には、ベースメイクがファンデーションに変わり、筆もそれに合うさまざまなものが出た。多くのファンデーションを生かすために、フェイスブラシをはじめ、チークブラシやアイブローブラシなど、さまざまな筆が登場した。1970年代には、化粧品の付属品としての従来の筆以外に、太いものから細いものまでのブラシセットが登場した。この傾向は、より進化し現在に至る。たとえば、筒の中にフェイスパウダーが入っており、適量が自然に刷毛の中に出て、顔につけると自然に仕上がるパウダリーブラシなどのような、さまざまな機能を持ったブラシが登場している。

 

化粧筆に求められるものは・・・・・・?

 

日本の化粧の歴史の中で筆に求められたことは、化粧方法の変化に対応し、いかによく化粧をするかであった。おしろいでつやを出す方法から、自然な美しさを表現する方法へ化粧の移り変わりの中で、筆にはおしろいを均一にのばす画一的なものから、生来の容貌を生かせる多様なものへと変化していったといえる。
では、これからの化粧筆に求められるもの何か。つやを出すことと、肌への感触のよさだと思う。肌への感触のよさは化粧の満足感を高め、ひいては美しくなれるという自信にもつながるのではないか。